KBDS講義録(3)メディアの歴史

人類最大のパラダイムシフト

ここでいう情報メディアとは人がコミニュケーションするためのメディアのことです。

情報メディアが革新することによって社会のパラダイムがものすごく変化しました。この情報メディアの革新が人類の歴史を変えてきました。そして最も大きな革新が情報のデジタル化なんです。すなわち情報の記録や発信がデジタル化されることによって、すべての情報メディアが情報メディアの域を超えて、すべての情報がメタメディア化されることで、すべての情報が01に還元され同次元で扱えることです。このことで人類のあらゆる感覚器官から入ってくる五感情報が同次元で記録・発信できる様になりました。私は人類史上最大の革命が起こっていると感じています。科学的知見と芸術的感性と同時に扱える(本来人はそうしたものであったのですが)、それらを区別することなく人流の資産として共有できる時代がやってきました。

以上のことを再考するために人類が生まれた時から現代まで何が起こって来たかについて、話をさせていただきます。

人類が人類になった時から。


(図:情報メディアの革新と社会のパラダイムシフト)

みなさんにこんなプリントアウトが出てるんです。これ実は奥田がマルチメディア論という講義に使うために作成しました、シャープ在職中(1998年)に整理したものでいまだに使っています。それの基本となる表現です。これ、色分けしているのは、こんだけ時代が変わったのだよっていうのを色分けしています。この辺りを一つ一つ説明していきます。

ノンバーバルからバーバルコミニュケーション

ここからちょっと眠たくなりますから、ボーと聞いていただいて結構です。大学の授業みたいになりますので。

人類が世に生まれたのは、一応二足歩行というのは700万年前と言われています。この辺りはざっくりしていますので、旧人類は大体50万~30万年前くらいに登場し、新人類は20万年前ぐらいに登場したと言われています。

10〜7万年前ぐらいに言語が発明されたとされています。よく考えてください、700万年といわれているアウストラロピテクスが出現して来た頃から考えたら、ざっくりいっても690万年もかかっているんです。言語を発明するまでに。そして文字とビジュアル表現(絵画)ができるようになってから、次の表現メディアの発明までの時間は、何百万年、何十万年という単位から、何千年という単位になる。単位が変わるんです。文字の発明は文明を生み出し、メソポタミア文明、エジプト文明、ギリシャ文明と数千年の間に現在の学問の原型とか宗教とか社会の原型や秩序など現代の知性の基礎全てが生まれているのです。だから言語が生まれ記述文字が発明された時点で、人類は(まぁなんかNHKの番組みたいな話ですけど)爆発的に知識を蓄えすごいスピードで発展していきます。新しく革新した情報メディアは次の新しい情報メディアを生み出すスピードは幾何級数的に早くなっていくのです。

オリジンとコピー/印刷技術の発明

記述言語すなわち文字の発明や紙の発明後歴史を変える。表現メディアに関わる革命的発明は、グーテンベルクが活版印刷の発明する。これはみなさんご存知の通り、知性の複製が出来るんです。神の言葉である聖書は活版印刷が発明されるまで手書きで写した物しかなかったし、ギリシャ時代すでにギリシャ時代に地動説というのがあったわけで、すでに書物として存在していましたが、手書きですから誰でもが読める者でなかったわけです。それらの書物は、教会とか、どっかの王様が持っているとか。極めて貴重で、中世では図書が集まっているということはすごい財力と権威があって、すごいステータスだったんですね。王や高位の聖職者でないと手にすることすらできなかったのです。特に聖書については、手書きで写さないといけなかったすると、一般の人は神の言葉にすら触れることができない。すなわち教会の聖職者から聞くしかないのです。それも聖職者の解釈であって直接聖書を読んで解釈したわけではない。教会の言う通り信じるしかない。一般人はなかなか読めない。そうすると活版印刷が出て皆んなが読めるようになったら、エッ、これって教会言ってるのと違うぞ!ていうやつが出てくるわけです。だって神の言葉を聖書に書いてあるやろ、でもあの枢機卿は間違ったこと言っている。いう違う考えが出てくるわけです。それは聖書に限らず、全てにおいてそうで、様々な知識や知恵が多くの人が手にすることができ、様々な議論が生まれる。その中から違う考えが生まれて来ます。そのようなことが起こると、何が起こるかって言うと革命的な考えや思想が生まれる。まさにグーテンベルグが1445年頃に活版印刷を発明してからたった500年ぐらいの間に、大変革が起こるわけです。宗教革命が起きる。市民革命が起きる。それから産業革命が起きる。それから資本論が現れる。この頃に現在の基本になってる近代思想、近代の規範がほぼ全てが生まれるのです。たった400年で。これってすごくないですか?メディアの変革のインパクトって。紀元前3000年頃、言語と記述ができるようになった瞬間に、世の中の学問とか宗教とか哲学というのが出来上がっていた。印刷という複製ができるようになり、それらに知識や知性の記述がみんなで共有できるようになったら、また革命的に世の中のパラダイムが変わったんですね。

画像や音声の記録伝達メディアの出現

その後、電話機の発明や音声と映画など画像や音声の記録伝達メディアが出来上り、時代が急速に進み始める。未発達なマスメディアや一部の人たちが、国民を扇動し不幸な時代突入します。これはマスメディアと未熟なジャーナリズムの中で、一人の考えが時空を超えて情報が伝達される。鮮烈な考えの人の考えが扇動的にラジオや新聞によって多くの人に知らしめるっていうか、極端な言い方したら洗脳することができる。

我々の世代は、テレビの影響力ものすごい。メディアの発達というのは実はそのぐらい社会に影響しています。私は学校教育で、一番問題だなあと思うのは、メディアに対しての教育がすごい遅れていることです。メディアリテラシーに対する教育、これは日本の教育の最も大きな歪みやと思っているんですけど。とりあえず、音声伝達メディアっていうのが、第一次世界大戦を起こしたといっても過言ではない。人類が滅びるぐらいの戦争を起こしているわけです。

戦争の歴史と映像の歴史

戦争の歴史と映像の歴史というのは切っても切離せないんです。ここにあるのは全部戦争の絵です。で、一番うまく利用した映像と音声伝達を利用したのはヒトラーです。ヒトラーが世の中をある意味洗脳した。一番メディアリテラシーの弱い女性と子供が洗脳され訳です。第二次世界大戦はものすごい乱暴な言い方ですけどメディアが扇動したのです。一方、我々の年代でいうとベトナム戦争を終わらせたのはこの写真です。もう一枚ありますけれども。ベトナム戦争を、戦争を始めるのもメディアなんですけれども、戦争を終わらすのもメディアと言えなくもない。従軍カメラマンが、敵味方関係なく写真を撮る。これもベトナム戦争です。ベトナム戦争反対運動も、この写真をきかっけに起こった。言い換えればこれらの写真がベトナム戦争を終わらせたと言ってもいいと思います。

ソビエト連邦の崩壊

それから衛星放送が始まった時に、第1発目の放送がケネディ暗殺。これは私は生で見ていたんですが、衛星放送が世の中を変えたのがこれなんです。ソヴィエト連邦崩壊、これどういうことかって言うと、衛生放送の電波はパラボラアンテナを上げればどこの放送も見見ることができます。そうするとソヴィエト連邦の中の社会情勢と、自由主義の社会情勢を比較することができる。そうすると民衆は社会主義社会に疑問を持ち始める。最終的には戦争を起こしているのは結局民衆。収束させるのも民衆。

衛星放送でソヴィエト連邦が崩壊したとも言えます。こういう風に映像の世紀がずーっと、ずーっというても、1920年代から100年足らずの間に起こっていることです。

コンピュータの出現

その間に第二次世界大戦中にコンピューターの発明がおこります。コンピューターの発明っていうのは、こういう映像の発明とほぼほぼ同じに始まっているんですけども、実はこの辺り、ゼロックスがパロアルトに研究所をつくったこのくらいから、コンピューターの意味が変わり始めます。で、コンピューターは最初は、弾道を計算するため、真空管でできたコンピュータです。これ全部、一つのコンピュータですけども、弾道を計算するために発明され様々な演算装置が発明されたんです。

メタメディアと認知科学

パロアルト研究所のアラン・ケイらのグループは「コンピュータは、単なる演算の機械ではない、既存のメディアを超えたメディアである。」ということを言い始めています。それと同時に、人間の思考状態をプログラム化することが出来るのようになり、認知科学、脳科学という学問が発展しはじめした。

インターネットと人間中心設計

インターネットが始まるこの頃には、考え方は人間中心設計。これは極めて欧米的な考え方。日本人はなかなか実は理解できなかった。この考え方のデザイン理論は、西洋社会の考え方で日本文化の考え方では自然の中に人間が含まれるという概念なので、日本人にとっては何か特別な考え方のように捉えますが、欧米ではすごく自然な考え方で特段特別なことではありません。しかし、人とコンピューターや機械との関係(インターフェイス)は人が中心にあるというのは当然で、重要なのはともすれば、設計の用意性や経済性が優先されがちですが、人が理解できなければならないのは当然です。人間中心設計とは、人が容易に理解し(あたかもインターフェイスという行為がなきかごとく)自然にインターラクションが行えるまで、検証を繰り返して最善を求めてサイクリック(繰り返し)に開発するということです。

1980年、アップルコンピューターのフェローになっていたドナルド・ノーマンって聞いたことがあると思います。多分コンピューターやユーザーインターフェイスデザインに関わっている人は絶対知っていると思うんですが、認知科学をコンピューターのUI開発に中に持ち込んだ人です。アラン・ケイはメタメディアという概念を世の中に知らしめる、有名なところではダイナブックという概念を世の中に出している。ここでコンピューターに対する概念がものすごい変わってきている。すなはちアラン・ケイが言っているのですけれども、コンピューターは道具ではない、メディアなんですという言い方ですね。このノートブックの基本的な概念や今のiPhone とかiPadはダイナブックの考え方です。これアラン・ケイのスケッチです。もうiPadでしょこれ。ここの一番下にあるのは、iPadに使ったコマーシャルです。最近はお目にかからなくなって言いますが。このダイナブックのコンセプトをそのままコマーシャルにしているんです。こういう風に、現在のメディア社会っていうのは人間中心設計が当たり前になっています。

価値の創造は心の動きのデザイン

スタンフォードのd.schoolも人間中心設計の考え方が基本的な考え方の中心にあります。

人間中心設計の理念は善良なプロダクトデザインでは当たり前の考え方なんですが、アメリカや日本では商業主義的になってきたことに対する反省かもしれません。それとコンピュータの発展からシミュレーションがしやすくなったからかもしれません。私が学生の頃(1970年代)人間工学という学問(英語のErgonomics)が重要で、人間の基本を見直す人間工学を徹底的に教育されました。その時は、身体的な人間工学でした。しかし現代では心理的な人間工学が重要で私も今は人間工学の専門家認定を受けています。心理的な人間工学とは人の心の動きを深く理解して、インターフェイスを設計しましょうという風になっています。言い換えるなら(身体的であっても心理的であっても)人間工学の考え方が人間中心設計の基本になるのです。d.shcoolのデザイン思考の基本を人間中心設計で考えるということは、人の心について深く考えることなのです。例えば今ここにペットボトルが置いてありますけれど、これを今欲しい、120円出して買おうと思うのは、人間の心の中で思うのであって、このペットボトルの飲み物があっても、飲みたい、美味しそう、健康にいいかも、という心の動きがあってその心の動きが価値を生むのです。その心の状態をどうデザインするかということがテーマなのです。

人にとっての価値と社会にとっての価値

そして人にとって価値があるだけでなく、社会に取っても価値がなくてはなりません。ヒューマンセンタードデザインてわかりやすいのですが、人にとって価値があるだけで良いのでしょうか?社会にとって、自然にとって、未来にとって、どうなんだろうか、それらをひとまとめにしていうと、世間にとって本当に価値があるのだろうか?人間を中心に置いて考えるだけでは不十分のような気がします。

情報の共有化時代のものつくり

これまでお話ししてきたのは表現メディアの変化です。最初は、言語が発明された時は、自分の思いとか、それから怒りとか、それから考え、とかを人に伝えるためだったんですけど、デジタル化が進み、今では、知識や考えを共有する時代になって、現代社会では、ものの考え方とか、設計の仕方がかつてと全く違ってきました。

モダンデザインの呪縛

私が総合デザインセンター長やっていた時に気づいたのですけれども。課長・部長になっている人、1970年代から80年代に学生時代を送った人は、モダンデザインの影響を強く受けています。例えばデザインでいうたらSimple is bestとかForm follows functionとか。モダンデザインの呪縛に縛られている。部下の課長部長はほとんどその教育を受けている方ですね。そうすると、新しいメタメディアの時代の概念が理解できない。もし、この中にその辺の考えが残っているという人がいらっしゃったら、悔い改めてください。もう時代はそんな時代じゃないんです。学校でデザインを教えているのですが、先生でSimple is bestとある先生に言われましたっていう生徒がいたら、もうその先生の話はきくなって言っています。それは大量生産時代の考え方で、過去の考え方です。

産業資本主義社会からポスト産業資本主義社会(知識集約型産業)

産業資本主義時代の額に汗をかいて働く時代ではなく脳に汗をかく知的生産時代なのです。日本では1980年代ぐらいから日本は産業資本主義社会からポスト産業資本主義社会に変わってきています。問題は消費者や顧客の欲求は産業資本主義社会に変わっているのに、日本の企業やデザイナーが変わっていない状況が起こっていました。現在は産業資本主義社会の時代じゃなくなって、ポスト産業資本主義社会すなわちポストモダニズムの時代だということです。多くの先進国はモダンの時代を超えてしまいポストモダンの時代に入っています。日本では1980年代後半から90年代にかけてそのモダンの時代は終わっています。その現象がグローバリズムで語られ、その本質が見えなくなっている。工場が日本から新興国に移転しましました。量産だけで物を作っている社会は儲からなくなりますよ。

インクルーシブ・デザイン

最近の一番面白い現象では、ZOZOTOWNの服、ある意味一人一人のオーダメイド化、量産された既製服ではなく。

ここ15年ぐらい前からこのイギリスの、RCA(Royal College of Art)というところで、インクルーシブ・デザインという概念現れ、インクルーシブ・デザインとはどういうことかというと、量産しようと思ったらユーザーの平均値で量産し、その平均値でカバーできない対象は切り捨てる量産時代のやり方をやめ、全ての人を対象とします。例えば身長とか体重とかってこういう正規分布しますね。量産の対象となる平均的な寸法の顧客だけを対処とし、そこにはまらない人たちを切り捨てるのが最も効率的に生産できます。大きさでいうとMとSとL、もしくはLL。SS。このぐらいまで量産し、それ以外の顧客は対象としない。ここは切り捨てます。これ量産型の産業です。

ところがZOZOTOWNの今提案しているのは物作りのあり方というのは、すべての人を対象とし、どんな人であっても除外しない。ほんまに成功するかどうか分からないですけど、すべての人を全部含めたろうとしている。すなわちインクルーシブ・デザインをするということです。こういう風に、社会の仕組みやシステムや構造や考え方がどんどん変わっています。でも、今皆さんまだ服買うのLSMでしょ?お金持ちなんかはオーダメイドで。もう超お金持ちは下着までオーダーメイドっていう時代です。ここに格差が生まれてるんやけど、このインクルーシブ・デザインの考え方いうたらそんなん関係なくみんな同じ。フラットになる。そういう風に、そういうことを解決できるようになったのが情報の共有化です。データ化することで成立する。そういう風に社会を捉えると、世の中ものすごい変化してるっていうのは理解できるかと思います。

未来を予感するセンス

映画のトロン見られた方おられますか?トロンっていうのは、コンピューターネットワーク上で、戦いが起こる映画なんです。それは単純なストーリーなんですけど、ネットワーク上で戦いが起こる話です。今のサイバー戦争のメタファとしては大変示唆に富んだ映画です。この映画は1980年代に制作されたものでした。

この地球の写真はアポロ11号から見た地球の写真です。1969年7月16日アポロ11号で人類が初めて月から地球を客観視した写真です。この写真が、今の省エネをしなければならない、地球を救うはなければならないと言うことを感じさせた写真です。この写真を見て地球は生きている生命体であると感じる感性ってすごくないですか?私は感性と言う言葉は安易に使いたくないのですが、この写真を見てガイア論を提唱した

ジェームズ・ラブロック(James Lovelock)って凄くないですか?いかにも西欧人らしい感性です(日本人は人は自然の一部にしか過ぎないと太古より思ってきました)が 、何はともあれ、この写真を見て、NASAの生物学者であるラブロックが地球は生命の塊や!と気付いたんです。私はこれこそ感性と呼びたい。

それを気づくことによって、地球はこれ以上崩壊させてはいけないということに気付き、今の省エネにつながっていくんですよね。またローマクラブなどでも、地球環境のことが取り上げられ、地球をこれ以上壊してはいけない、エネルギーを無駄にしちゃいけない、それから地球の炭素をふやしてはいけない、そういうとこに繋がっていくわけですね。こういう風に、映像が世の中を変えていった時代です。

メタメディアの発明は恐ろしいほどの変革が起こる

現代は、アラン・ケイが言ったメタメディアによる智の共有の時代。いわゆるメタメディアという概念が今世の中を変えていっているんです。メタメディアとはどういうことかというと、映像とか音とかテキストとか動作とか、あらゆる情報がコンピューター上で処理されている。これは今まで人類が別々に扱っていた情報を全部一緒に扱うことができるということなんです。どんな情報もコンピューターの中では全部一緒に0と1として扱われる。でこれは人類の歴史の中では、文字とか言葉を発明した以上のインパクトがあります。だからアラン・ケイはコンピューターはツールじゃなくてメディア、という言い方をしているんですね。ここでいうメディアっていうのは情報メディアのことですけど。この情報メディアの変革は、人の頭の中で起こっていることを外在化して客体として扱えることを意味すると考えるられますよね。しかもそれをネットワーク上でつなぐことができる。これは今まで人類史の中で、言葉を発明する以上に恐ろしいことが起こるぞという予感がします、そして現に今起こりそうですね。

メディアが戦争を起こしたり止めたりする

湾岸戦争の話なんですけど「湾岸戦争を起こしたのは彼女です」といっても過言ではありません。これどう言うことかって言うと、湾岸戦争の発端はイランのクエートに侵攻ですよね。その惨状を「ナイラ」なる女性(当時15歳)が非政府組織トム・ラントス人権委員会に証言し、テレビで放送をしたんです。イラクによるクウェート侵攻後「イラク軍兵士がクウェートの病院から保育器に入った新生児を取り出して放置し、死に至らしめた」など涙ながらに語って、世界中に報道したんです。世界中の全良な人たちは、それはけしからんとなった。それをなんとかして止めないといけない!ということで、この「証言」は湾岸戦争の火蓋をきることになりました。ところがこのナイラさんは、クエートのアメリカ大使館の娘なんです。というとは、アメリカに住んでいて、そんなこと見るっていうことはありえないんです。これは、ある演出家が演出して、戦争を起こす為に彼女に出演させて、世論を戦争に向かわせるような構想をしたんです。これが戦争を起こしちゃったんです。そしてイラクをむっちゃくちゃにしてしまったんです。微妙な話なんですけど、ネットで皆さん調べてみてください。

同じようなことが、これは放送ではなくこれはSNSですよね。新たな波紋をおこしているのはtwitterですよね。IS(Islamic State)、これもネットワーク上のSNSの利用ですよね。アラブの春もツイッターですし、トランプ大統領は全部twitterを使って重要事項を発表するし。ことごとく社会はメディアの発展によってどんどん変化したり戦争したり、面白いほど変革します。そのなかで一番すごいのがメタメディアっていう概念なんですね。長々といいましたけど、メディアの発展って恐ろしいことが起こっているということがなんとなく理解してもらえたと思います。

ノンバーバルコミニュケーションとバーバルコミニュケーション

これまで、人が言葉という表現伝達メディアを手にしてから現代に至るまでの話を主にお話ししてきましたが、もっと長い目で人類が人としてこの世に現れた時から現代までを見てみましょう。人類の歴史全体を見渡して見ると、左図の赤テープ状の部分は、人類の歴史の中で言語が無かった時代を表現しています。ちなみに1本の帯は約1万年です。人類は言語はなしでこれだけ長い時代、数百万年程の間過ごしてきたそうです。言語が登場してから現代まで10万年程度しか経っていない。それまでは人々はどのように意思疎通をし社会を形成してきたのでしょうか?多分共感する能力や、表情などを細やかに読み解く能力はすごく発達していたのだと私は推測しています。こうやって皆さんにコミュニケーションしてるのは言語があるからなんですね。この言語の発明によってパラダイムシフトが起こりました。

言語というメディアを発明してからを詳しくみますと、文字による記述が五千年前ぐらい。紙の発明があって印刷技術があってメタメディアがある。どんどんこの新しいメディアが発明される時間が縮まっている。幾何級数的に変化しています。私たちはその上で生きているのです。

人とのコミュニケーションを人と人のインタラクションとして考えてみると、人類は数百万年の間、ノンバーバルにコミュニケーション(言葉を使わないで)してきたんです。言語が無くっても、情報がちゃんと伝わり生活をしてきたということをまず理解してほしいのです。そして人は言葉で表現される情報以外の表現メディアによる情報をキャッチしています。原子の人は共感力が

すごく発達していたのでしょうね。現代人は失ってしまった能力ですね。

余談ですが、茶道って共感力を鍛える良いメソッドだと思うんです。だから経営者や政治家にとっては大変重要な修行の場なんですね。単にコミニュケーションを取り、仲間意識を作るだけでしたらゴルフでもいいんですけど。

(麦茶のペットボトルを手に取り)これは麦茶ってみんなわかりますよね。で、ここ麦茶って書いてあるからなんですけど瞬間的に読まないですよね、確認の為に読みますけど。これ無くってもなんとなくわかりますよね。色や形でこれはノンバーバルのコミュニケーションですね。飲むものであるということもメッセージとしては通じていますよね。この手法を利用したのがアイコンで、アイコンを見ただけで瞬時に何のアプリのアイコンか大体わかりますのね。しかしアイコンの下には必ず文字で何のアプリか書いてあります。アイコンの下には名称を書くルールになっていますが、多くの人は下に書いてあるアプリの名前はほとんど読んでいません。文字表記以外の情報である五感情報の方が瞬時に判断できます。

ある概念やあるもののあり方を伝えるのは、言葉以外の情報の方が大事なのです。言葉で表現できるためには、ある事象が概念づけされ、共通の認識がなければコミニュケーションが成り立ちません。だから言葉の意味を辞書などで言葉で説明されても本質は瞬時に捕らえられません。

一つ大事な事柄ですが、皆さん、物事を考える時、言葉で考えていませんか?今私が喋ってお伝えしていること全部言葉でお伝えしています。頭のなかに入って言葉に紐づいている表象で考えていますよね。でも言葉に紐づいている表象が一人一人違っていたらなかなか正確には伝わりません。おおよそは伝わりますが。このことって重要なんですね。一人一人言葉に紐づいている内容が違うから、多様な人たちが集まると新しいアイデアが生まれます。奥田はこのことを「不正確の効果」と呼んでいます。人類は、十万年前ぐらいまでは、言葉なしに思考してコミニュケーションしてきた。現在と全く違う社会に生きていたんですね。これをどう考えるか?

野生の思考-ブリコラージュ

商品やシステムやサービスを設計されていますよね。でもそんなもんじゃない、言葉のない時代の話しを考えてみましょう。

これって、石器時代の道具、斧のようなモノ(斧という概念がまだない)ですね。これ言葉の無い時代にあったものです。言葉なしで発明してるというのは事実ですね。すなはち設計という概念もないのです。

なぜこのような石器文化が生まれたのかというと、とりあえず目の前にある使えそうなものを組み合わせて試してみる。この段階ではロジックも理論もない。うまくいくとさらにうまくいくようにするためにはどうしたら良いか考える。

これの繰り返しなんです。そのうちに名称が生まれ、細部やパーツにも名称が付けられ、みんなで洗練していくんです。

これはこれいまの商品でいうと斧です。私たちの仕事でいうと、あるクライアントから新しい斧のデザインしてくれと依頼されます。この時点で斧という言霊の呪縛にハマるんです。斧ってもう基本的にこういう物であると言うことが頭に入っている。すなわち概念化されているんですね。それを聞いて私たちデザイナーは設計、デザインを始めるわけなんですけど。じゃあ、一番最初、斧っていう概念がない時に、新しい木を切るためのイノベーションを起こすにはどうすれば良いのでしょう。

スタンフォードのd.schoolのデザイン思考の中で、ラピッドプロトタイピングをしようと説明されています。しかしラピッドプロトタイピングは言語で考えていては、イノベーションは起こりません。イノベーションを起こすアイデアは言語で考える前にイメージや目の前の事象から生まれるのですから。

これをなんて言うかというとブリコラージュっていいます。ブリコラージュはフランスの人類学者・クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)著作の「野生の思考」(La Pensée sauvage)で説明されています。

ある課題を解決するためにどうすればいいか。アポロ13号の帰還を描いた映画で、地上スタッフがこの方法で問題解決するのが描かれていました。宇宙船の中にあるものだけで問題解決しないといけない時、地上スタッフが船内にある備品だけで問題解決するための方法を開発するシーンです。船内にあるもので課題を解決する方法を考案し、その方法を宇宙船の船内に管制室から伝え、見事問題解決するシーンです。正にブリコラージュです。現代の日本人はブリコラージュって思考、全くできていない。

アーキタイプ(元形)

実はこれは日本の教育の課題です。皆さん方、大学の入試で答案用紙に絵描いたことないでしょ。みんな文字でしょ。言語の答案。文字一個まちがえたらバツ。ブリコラージュ思考ではでは一文字間違おうが、言葉に表せなかろうが関係ないのです。革新的アイデアを生むときはそんな小さなことは関係ないのです。ということは、言語や理論を超えて思考しなければならない。私が大学で授業する時は学生に「言葉で考えるな。スケッチ150個描いてきなさい」とか言うんです。それは、野生の思考を取り戻すためのトレーニングです。単純に、よくデッサン力の訓練と勘違いされる人がいますが全く意味が違います。ちなみにデッサン力とは単に描画力をつけるのではなく対象を捉える力をつける訓練です。現代はそのような野生の思考が著しく無くなっています。お茶やお華とかやっていらっしゃる方?お料理好きな人?本当にお料理好きな人に聞きますと、レシピをみてやらないでしょ?冷蔵庫みて、その中にあるものでちょこちょっと作りますよね。そういう思考ができない人がすごく増えています。コンピューターのソフトを使って、設計するメソッドがあって、ロジック道理に設計して、アイデア出しはファシリテーターがいて。じゃあファシリテーターがいなくなって、メソッドがなく、設計理論がなかったらどうしますか?なんも持ってない、何もできない状態に陥ります。だからブリコラージュ的思考が重要で、この思考を取り戻さなくてはなりません。

最初に、アーキタイプになるアイデアは、野生の思考(ブリコラージュ的思考)なしには生まれません。元形となるアイデアを洗練して具体化していく時に、論理的思考が必要になり、より鋭く、より丈夫に、より使いやすいい構造にしようとするとき、一つ一つを問題解決していくと単なるアイデアが現実の斧になる。これが設計です。しかし原型を生み出す段階でロジックや概念(言葉)に囚われてはいけないのです。

いきなり言葉で考えたりロジックから入っていませんか。それは、誰かが創ったアーキタイプをリメイクしているだけ、または洗練しているだけなんです。どっかで見たことがあるものになって画期的な商品や革新的サービスになってはならないのです。

デザイン教育だけじゃなくて、アート教育の現場では、どっかで見たことのあるものは、徹底的に否定されます。オリジナリティーがあるものが求められます。このオリジナリティーを追求すると言うことは、ものすごい精神的に追い込まれます。デザインやアートの現場だけでなく、全てにおいてオリジナリティーの追求する教育がすごく大事やなあと最近思思っています。

しかしただ、オリジナリティーだけを追求しても、思考がまだ言語思考や論理的思考に入っている限りはブリコラージュは起こりません。野生の思考の訓練が必要だと。

お料理の好きな方は幸いです。お茶・お華やられたり、歌作ったり、俗にいうアート系のお遊びっていうのは一つなんかみなさんも楽しんでしてください。どれでもいいです。特に日本の日常芸術や料理を楽しむとか、図面なしのDIYを楽しむと野生の思考ができるようになるかもしれません。

野生の思考は、現在の教育システムでは身につきません、別途訓練をしない限り、頭は論理思考に入ってしまってアーキタイプとなるアイデアを生める野生の思考はできないように思います。今回は残念ながら本日の講座では時間がなく出来ませんけど、そのようなものの考え方が大事ですよということだけ記憶にとどめておいてください。

アーキタイプとラピッドプロトタイピング

スタンフォード流にいうと、ここはラピッドプロトタイピングと言ってますが、このラピッドプロトタイピングでアーキタイプとなるアイデアが生まれるかが重要なんです。そしてその荒削りのアーキタイプを洗練していくプロセスにサイクリックな開発プロセスがあります。スタンフォード流のデザイン思考で、アーキタイプとなるアイデアを生むプロセスがなおざりになっているのではないかと思います。そしてラピッドプロトタイピングでサイクリックに洗練していくことでゴールを目指すことしか言ってないような気がします。

情報の爆発と一瞬の判断と美

メディアの歴史を振り返って見ると、重要な問題を発見しました。平成23年8月 総務省情報通信政策研究所調査研究部がまとめた情報の爆発っていう研究テーマなんですけれど、人類がどれだけの情報を消費しているのかっていうのを計算しグラフ化したものです。1990年はまだ大したことはないのです。2000年でもまだこんなところです。ところが2020年はほぼほぼ垂直です。シンギュラリティに達します。ここ数年でそれだけ情報の処理スピード、消費するスピードが変わっています。一人の人間が消費してるんですよ。要は、メタメディアによる消費は膨大な情報消費をします。そういう時代が来たんですね。その時代に今生きているんだということをまず認識してほしいんです。

そして情報処理は言語による思考や論理的思考では処理しきれないんです。人間が、美による情報処理をする世界に入って、人間が美しいって思うことは、論理的にも実はきちっと説明がつくはずなんです。それがいますぐに説明がつかないものを現在は感性という言葉で説明しようとしています。それはまだ研究が進んでいないもので、心が動かされるものは感性とか美とかいう概念でごまかしているだけだと奥田は勝手に思っています。例えば数学者が、この数式は美しいっ!ていう時に完璧な数式をとっている。

あの、昔私が自動車が大好きな時に、フェアレディZのエンジンルームやポルシェのエンジンルームも美しかった。多分エンジニアの美意識の問題だと思います。美しいっていう感情は、実はものすごい人間が一瞬にして、その対象物の、論理性とかその整合性とか素晴らしいものあり方を、一瞬にして捉える瞬間を美しいと感じるのでしょう。一瞬にして捉える能力がないと、これだけの情報処理っていうのは出来ないんです。ロジックではそのすばらしさが説明しきれないものを相互的に瞬時に捉えると美しいと感じます。この感性のプロセスはこの講座で最も重要な視点です。

本題から外れるかもしれませんが。非言語の時代があって、野生の思考が言語が発明されるまであったんです。それで高度に言語思考が発展し、野生の思考が無くなって行ったんではないでしょうか。野生の思考で最も重要な能力は共感力で、それも失った人類は戦争ばかりしてきたのではとふと思うことがあります。

スタンフォードのd.schoolを学ばれた方、もしくは本を読まれた方、ちょっとでも接したデザイン思考に接された方がいらっしゃると思います。デザイン思考では「共感」っていう言葉をすごく大事にしています。『ユーザーに共感しなさい。』と言われています。しかし言語思考だけでやっていると共感はできないのです。自分が現場に行って、現場で見聞きして、言葉ではなく肌で実感しないと共感は生まれない。すなはち、言語思考を捨てたところに共感が生まれるんですね。

近代が始まるとともに科学とアートの分離は始まる

活版印刷が始まって近代が始まる。近代に入ってから科学と芸術が分離されて、文系と理系に別れたました。文系がどんどん重要と思われなくなってきていますね。特に日本では。文系の研究者や創作者が少なくなっています。自然科学はすでに神の域を超え、すごい発展してきました。論文といえば殆ど自然科学です。それが近代の成果なんですね。

現代のメタメディアの時代になってからは、芸術と科学の再統合にむかっているのに、教養学部なんていらないという馬鹿げたことを言ったどこかの官僚がいるようですけど。これは由々しいことで。世界の潮流は違います。まぁスタンフォードのd.schoolも一つの現象かもしれません。

1980年代後半に実は、東京大学の総長であった生産工学の吉川先生は東京芸大と東大を一緒しようと考えられていたときたことがあります。都市伝説かもしれませんが、文科省はそれを潰してしまったらしい。ウソか本当かわからないのですが、その言い訳として人工物研究所ができたらしい。

1999年に、中国では、清華大学が中央工芸美術学院を併合しました。そして清華大学は美術館も持っていますし、一方工学系では中国の工科系大学のトップに君臨しています。日本は完璧に遅れています。日本にそんな大学はないでしょう。メタメディア化によるアートとサイエンスの融合は時代の流れだと思いませんか?

このアートとサイエンスの融合が情報メディアがメタメディア化することで始まっています。最近の若者はすでに融合し始めているような気がしています。社会や学校、識者がブレーキになっているように思います。

デザインはアートとテクノロジー

アートとサイエンスの分離は近代の考え方でありますが、近代の考え方が生み出したプロダクトデザインという概念や考え方はアートとテクノロジーが融合して成り立っています。そのことに気付いたスタンフォード大学ではデザイン思考を導入し始めたのではないでしょうか。

最近ではドメインが工学系の方が芸大でデザインの勉強をされたり、その逆に芸術系の学校を出て工学系の学校に入学される方が増えてきています。有名な方ではダイソンの社長なんかそうです。ダイソンさんは空気力学のオーソリティでRCA(Royal College of Art )でデザインを学ばれています。彼は事業自体をデザインされたのでしょう。今デザイン界でもそのような方が増えてきています。例えば台湾とか、シンガポールで、デザインフォーラムとかデザインワークショップが開かれると、デザイナーがプログラムが出来たり、CAD設計まで、その場でコラボワークができるようになってきました。工学系に精通したデザイナーもたくさん生まれてきています。ムラタチアキさんは大阪市立大学工学部応用物理学科の出身ですし、山中俊治さんなんかは東京大学工学部産業機械工学科出身です。基本的に単なるエンジニアはいらない。その逆もそうです。ダイソン社長はかなり高いレベルのデザインを理解している一人でしょう。スティーブジョブスも高い美意識と先進のテクノロジーの意味を理解していた一人でしょう。

自分のドメインが工学系であれ美術系であれ、イノベーションを起こすにはその両方の能力がバランスよく持っていることが必要な時代になってきました。

「KYOTO STEAM―世界文化交流祭―」

このようにクリエイティブな現場では、芸術と科学の再統合起こっています。実はこの京都でも文化庁の京都移転に伴い、京都市でもサイエンスとアートと文化と産業というテーマで何かしようと企んではります。元来古の京都は常に最先端の技術と最高の芸術が混在してきた都市です。そんな都市は世界的に見てもあまりないですが、ロンドンもパリもニューヨークもそうでした。

アラン・ケイが言ったメタメディアとは「音声、テキスト、画像、ビデオなどの既成メディアを統合し、人が活用できるようにするという考え方で、あらゆるメディアを超えたメディアとしてコンピューターが存在する」という。よく考えてみるとこれは当然のことで、人間の脳は本来メタメディアに処理されています。そして情報はマルチモーダルに入ってきます。ところが論理思考は分析的に物事を考えるために、説明のつかないこと、考えが及ばないこと、もしくはロジックに当てはまらないことを全部切り捨て考えてゆきます。しかし我々の発想したり画期的なアイデアが生まれるときは、なんとなく感覚的に気持ち悪く、論理的におかしいと思いながら、それらを乗り越える新しい何かが生まれた時、画期的なアイデアが生まれます。長い間クリエイティブな現場にいて実感しているのですが、みんなが賛同してくれるアイデアは多くの場合つまらなないものが多い。その逆で、誰もがわかってもらえなくて、怒りが生じるぐらいの時のアイデアは一時代を作るアイデアになることが多いです。もちろんそのアイデアを実現するためには、多くの人を説得し、わからない人と戦わなければなりません。そして、アイデアを現実のものにした暁には成功が待っています。

コンピューターにより情報がメタメディアで扱うことが実現したことで、人類が五千年前に忘れていた共感力や感性で思考することを取り戻すことができる様になってきました。また近代は科学から芸術を分離し科学技術が飛躍的に発展しましたが、これからは情報メディアがメタメディア化することで、科学と芸術が再融合して巨大なエネルギーを放つ予感がします。

そしてメタメディア化した表現メディアは、人の認知と思考を変え、社会の構造変革をするでしょう。人類は言葉のないノンバーバルな認知と思考を数百万年ぐらい続けてきた。言葉を使わないコミュニケーションの生活で、共感する能力で。しかし、言葉という便利な表現メディアを手にいれることによって、共感能力も落ちていった。そしてメタメディアの出現でノンバーバルな知識や思考能力を取り戻しつつあります。メタメディアの出現であらゆる情報が統合的に扱えるようになり、人間の認知を統合的に捉えるようになったことから、脳科学とか認知科学という学問が飛躍的に発展しました。脳科学・認知科学の始まりは1970年代後半です。つい最近のことです。だから今から一生懸命研究したら、オーソリティーになることができますよ。そ

それから近代思想が、科学と芸術の分離によって発展してきたが、ポスト近代はメタメディアの出現で科学と芸術の再統合ができる時代となり、さらなる発展が期待出来る。今までの発展とは比べものにならない発展の可能性を秘めています。社会の変革の可能性は、19世紀のあの産業革命よりはるかに革新的な社会が生まれるかもしれません。私なんかはもう人生終末時期に入っていますので難しいと思いますが、皆さん方はそこを乗り切っていただくと、すばらしいことが起こるかもしれない。

メタメディアの出現で人間を中心としたデザインの仕方、ヒューマンセンタードデザイン(HCD) という考え方が生まれてきました。HCDのおかげで身体的人間工学が心理学の視点で再認識されるようになりました。私たちが大学に入った時に必須だった人間工学という教科は物理的な視点でした。人間の体重、身長はこんだけで、手の長さはこんだけで、そういう物理的な人間工学だったんだけれども、いま心理学的な人間工学がすごい勢いで発達してきています。

価値は人間の心理の中に生まれる

ここまでがこれから始まる講座のプロローグです。

この講座の主題は、価値は人間の心理の中に生まれて、物やサービスそのもにには価値はないということです。価値は、製品やサービスなどの事象に存在するものではなく、製品の使用者やサービスを受ける人の心の中に生まれるものです。そのことを捉え、どのように価値を生み、どのような革新的な商品やサービスを創出するかが、この講座の大きな狙いです。そしてそれらを戦略としてそのようにデザインするかが,京都ビジネスデザインスクール(KBDS)の目標です。